TOKUHIRO Junya

徳広淳也

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★メッセージ

2009年11月、朝日新聞に珍しい内容の記事が掲載されていました。文芸の頁で「詩」についての内容でした。

『書店で平積みされた詩集が争って読まれた'60年代は、遠い昔。芸術が前衛性を追いかけ続け、新しい表現が、一般の人と共有できなくなった』

と編集同人の細見和之氏が語っていました。

『映画やゲームなど、薄められた余情性に人々が満足するようになり、詩人はそれへの対抗を怠ってきた。現代詩は書き手同士が、うなずき合う閉ざした世界になっている』

と云い、すべての芸術表現が一般の人と遠くなったと現況をなげく記事でした。

私はこれを読んで、造形芸術の世界では、これよりもっと閉ざされた世界になっていると感じました。私は「二科」とか「独立」とかを見に行かなくなって久しいのですが、有料入場者数は盛期の10分の1にも満たないと、会友になっている知人の話を聞いたことがあります。何で、成り立っているのかと云えば、出展料金と審査料だと云うのです。「ですから出来るだけ沢山の作品を通過させ、見上げないといけない大作の三段掛けとなるのです」と彼は語りました。
従って、会の主張とは云わなくても、二科は二科らしく、独立は独立らしい作品のみ受け付ける考えなど、感じられなくなっているのです。
入場者はまばらで足早に大きな作品群の前を通りすぎていきます。作品からのメッセージは、私には伝わって来ません。作品の画面から伝わってくるものは、“これでもか”とか、“勝ちたい” “新しいだろう”と云う思いだけです。公募展に出品し賞をとりたいと云う思いが、ほとんどの作品のうらから発信されているだけで、それらの大作はひじを張って並んでいるにすぎないのです。しかも会期が終わると、どこに掛けるのか心配される程の大作ばかりで、30号の作品が小品に見えるのです。
欧米では、普通の住宅でも壁が多く、タンスなどと云う身長より高い家具はキッチン以外には皆無ですから100号程度の絵を壁に掛けることも可能ですが、日本の住居は、閉口部が広く、かなりの大きな住宅でも20号程度がせいいっぱいなのです。その割には、美術館の壁が高く三段掛けができるのです。
よく公的な病院に行くと、100号200号の油絵が沢山見られるのですが、それが、すべて、寄贈されたものばかり、いかに自宅のアトリエと云えども、まともに掛けることもできない大きさなのでしょう。これは、私だけの思いちがいではない筈です。
大作がよくないと考えているわけではありません。唯、公募展のためにだけ制作される作品という風潮が、私にはなじまないのです。
その結果現代の造形美術が、作家として、みとめられたい人達だけの異様な、閉ざされた世界に嵌まって、ますます、一般の人々が遠ざかってしまうことになっています。
なぜ、美術評論家の方も、美術界の、立派な作品を造られる高名な方々も、そのことに気付かないのでしょう。

私は美術学校を卒業する頃、美術界の人的組織構造の異常に気付き、絵描きになることを止め、社会人として仕事をしてきましたが、絵を描くことは止めることが出来ない程、描きたい内的な欲求は続き、現在に至っています。11年程前に私の開設した会社をたたみ、リタイアしてから、初めて画家の名刺を作り、アトリエを持ち、一年に300日以上アトリエ通いをし、年2回の個展を開いています。私は画壇とは、かかわりがいまだに無く、私の作品を見てくださる方も、ほとんど一般の人達です。
2000年ミレニアムの年から今年2011年まで、個展を出身地の四国で5回、40年住んでいる大阪府下で18回も開きました。
前述のように、来場して下さる方は、すべて一般の人です。会期中に3回もきて下さる方。必ず顔を見せて下さる方。初めてなのに、「しびれた」とおっしゃって、2点も買って下さる方。私の気付かない、私の作品から受けとられる個性を教えて下さる方。ニュースとして、記事にして下さった、地方新聞の方々。私の作品が、ほとんど風景ですので、「足でかせいでいる」「一点も売り絵を描いていない」とほめて下さる高名な写真家の方。“応援会長”(これは私が云ったのですが)として、何人かの人をともなって、会場に通って下さる方。もう15点以上私の作品をお持ちの、私の主治医の先生。20年前一緒にヨーロッパの旅をした、小さな会社の若い社長。飲み友達。釣り友達。私の作品展をやりたいと、さそって下さったギャラリー主。
私はこんな人達にささえられて、アトリエという制作工房を維持しているのです。

新聞やテレビで、新進作家と云うふれこみで、作家が紹介されることがあります。「時代を創る作家」とか、「新進気鋭」とか、「常識を打ちやぶる」など、褒め言葉が必ず並んでいます。私はこれらの事柄からずっと感じていたことは、「新しい」と云う言葉の中に必ず「善」とか「正しい」と云う意味がこめられていると云う不思議です。日本語の“新”には、新品・新築・新酒など新しいことを高く評価する語意がこめられています。しかし“新しい”と云う言葉には本来“善”も“正”と云う意味も無いのです。(広辞苑)
新聞は文字通り、新しいことを知らせる役割が主軸ですから新進を扱わなくては仕方がないのですが、この語意が作家を志す人に、一定の方向を指示していると私は考えます。先に述べた前衛性を感じさせるものだけを追い続けている結果になっていると考えられるのです。そういった作品を一般の人は、わからないだけでなく、身近に感じられず、はるかに別世界の遠いものとなってしまっているのです。新しいものが、意味がないとも、新しいからつまらないとも私は思っていません。唯、新進と見える表面だけで評価を高めてしまっているマスコミの構造が、一定の風潮をつくり、一般の人を遠ざけてしまっていることを、否定できるでしょうか。

私は公募展に出して評価されたいと云う動機からは絵を描くことができない画家です。私は、頭の中の自分の何かを感じていること、それだけでは、造形のスタートが切れないのです。私の眼に入ってくる、映像からしかイメージがスタートできず、しかも美しいと感じる(これには個人差があることはよくわかっています)風景や人物などからは描きたいという動機が生れます。
それを画面に構成するためには技術が必要ですが、技術はみていただくものではなく、あくまで裏方です。何が描かれているとか、写実的に正確であるかも、作品と質とは無関係です。私は私のメッセージが見てくださる人に伝わることだけを願って、絵を描いています。云うまでもなく絵は言葉です。

私の考え方をどうお感じいただけるでしょうか。私は、私の考えが、すきまなく文章として、出来上がっていると云う自信はありません。しかし、芸術が今日程一般の人から遠くなっている時代はなかったと云う考えだけは、まちがっていないと思っています。どうか、ご意見をおよせ下さい。そして作品を見ていただいた方からは、作品に対する忌憚のない、ご講評をいただければ幸です。

徳広淳也

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